46歳の独女が、迷走の日々を綴っています。

アラフィフおばさん、過去の海外旅行の思い出@中国 深夜の北京駅前で流民になりかける 1997

旅日記
Photo by Naman Mehra on Unsplash

1997年の北京に留学していたときのお話。
諸事情で、旅行といえば一人旅になってしまったハイコ。
詳しくはこちら→初めての中国一人旅で小公女セーラになる(クリックするとブログに飛びます)をご覧ください。

夏休みにまた一人旅に出かけました。
メインの目的地は中国三大石窟の一つ「龍門石窟」です。
場所は北京の南「鄭州」という都市が最寄り駅となり、ご存じな方も多いと思いますが付近にはかの有名な「少林寺」なんかもあります。ハイコは少林寺拳法にはあまり興味がなかったので行きませんでしたが…。
旅行初日は北京から鄭州へ移動→二日目に龍門石窟を見て付近に宿泊→三日目は龍門石窟から鄭州市内へ戻り一泊→最終日は黄河も近いので黄河見学して北京に帰ってくるという3泊4日の旅行でした。
なんせ当時の中国は移動にえらく時間を取られるので、観光している時間と移動している時間の割合が1:5ぐらいな感じです。
なので正味観光を楽しめるのは12時間もなかったかもしれません。

旅のドタバタ珍道中は、また後日気が向いたらご紹介しますが、今回は表題の件でございます。

どういうタイミングで流民になりかけたかというと、最終日北京駅に到着した時です。

流民といってもひとくくりに説明はしにくいのですが、当時の北京は農村部から仕事を求めて当てもなくやってくる人がたくさんいました。
そこそこ大きな都市の駅前には、なんだかよくわからないけれど、人がたむろしていたのです。
たむろというか、もうそこで生活している感じです。
最初はなんで電車にも乗らず駅前にいるんだろう?と意味が分かりませんでしたが、仕事を求めて田舎から出てきたものの、結局職にありつけず、結果帰る交通費も底をつき、駅前広場で野宿しながら日雇いの仕事で食いつないでいる方が結構な数いました。
リアルに電車を待っている人もいるので、無碍にどかされることもなく、そこが安住の地だったのかもしれません。
その後、2008年の北京オリンピックを機にそういう景観を悪くするようなヒト・モノは一掃されたとかされないとか…その後その人たちがどうなったかは知る由もありません。
しかし、少なくとも自分が留学していた1997年は、そういう方が一定数いて、あまり駅前は治安のよい雰囲気ではありませんでした。
これは中国が特別にどうということではなく、いつの時代もどの国にも経済格差はあり、翻弄されたり苦労している人がいるというのは変わらないとハイコは思います。


もとい、そういったわけで駅前広場を一人で通るときは、脇を締め気合を入れて通っていた、そんな記憶があります。
なんせ20歳なりたての、ギャル一人旅だったもので。

ということで、列車の出発・到着時刻は夜間を避けるようにしていました。
ただ目的地によっては、どうしたって出発到着のどちらかが日が暮れてからになってしまうこともありました。そういう場合は、出発を日没後にし、明るいうちに駅構内で待機するようにしていました。
このルールも、留学期間も後半になればなるどほどんどん適当になっていったのですが。
少なくとも、「龍門石窟ツアー」に関しては、鄭州に日没前に着くようにし、最終日北京駅にも日没前に到着するような列車のチケットを買っていました。

しかし、旅にトラブルはつきものです。

想定外の事態は帰りに起きました。

というか、単純に大幅な列車の遅延です。

17時に北京駅到着の予定が、深夜1時に到着してしまいました。

危機管理能力の低い呑気なハイコは北京駅から留学生寮までの交通手段を公共バス一択とし、所持金を15元=200円程度しか残していなかったのです。
あとは、パーっと使ってしまいました。
予定通りいけば公共バスは20円もしない激安だったので、余裕♪余裕だったのです。

列車が定刻よりちょっと遅れて鄭州駅を出発したので、祈るような気持ちでもうこれ以上遅れないでね、なんせ私所持金200円だから。と、時計とにらめっこするもむなしく、ハイコの体感では列車は牛歩の歩み。

結果、深夜の1時に北京駅前に放り出されたハイコ。

どうしよう。
いくら20年前の中国といえど、タクシーなら数百円はくだらない。
しかもこの時間流しのタクシーなんか乗ったら、逆にぼったくられる可能性だってある。
かといって、この駅前で流民の皆さんとともに野宿する勇気もない。



まじ、どうしよう…。

しかし、ハイコは気が付きました。

ん?そうだ!

なにも留学生寮は川の向こう、海の向こうにあるわけではないのだ。

地続きだ。

ならばここで朝までとどまっているよりは、とにかく歩けばいいのだ!
今、ググってみましたが、歩けば2時間弱の距離でした。

というわけで意を決したハイコ、歩き出したのも束の間、駅前から大きな通りに出た瞬間に、やっぱりだめだと気が付いたのです。
こんな深夜に、明らかににちょっと抜けてる日本人顔の女が一人ウロウロと歩いていたら、それはそれで普通に危険ですよね。当たり前だ。

深夜でも人出はそれなりにありましたが、夜道を前に早速怖気づくハイコ。

そこへ空車の明かりのついたタクシーが近づいてきました。

なんとハイコはお金もないのに、その流しのタクシーに向かって、

「はい!のります!」と挙手していました。

そうです。
もうこれは、情に訴えるしかない。
ハイコはそう思いました。

当時のタクシーは自分でドアをよいしょと開けるシステムだったのですが、
停まってくれたタクシーに乗り込む前に、助手席からグイと顔を入れて、

「すんません、私これしかお金ないんです。○○大学まで、いけるところまででいいので、乗せてください!」と財布をパカっと開けて、中身を晒しました。

よく考えたら、行けるところまでなので、当然ちゃ当然ですね。情に訴えているわけではないですね。

ドライバーさんは最初怪訝な顔をしたものの、

「じゃあ、乗合でもいい?ほかのお客さんがいたら迂回になるけど、15元で連れてってあげるよ。」

と神様のような返事。


ハ:わーい!やったやった、野宿回避!


「そ!それでオーケーです!」


ということで、私は後ろのシートではなく、他のお客さんが乗ってきたときのために、助手席に座ることとなりました。
今思えば、割とその手法はポピュラーなんでしょうか。
留学を終えて帰国する際に、北京空港までのタクシーを値切りに値切ったら、なぜかドライバー以外にもう一人乗客がいて、涼しい顔して途中で降りていきました。
そうやって、うまいこと値切りに対応しているのかもです。
よく言えば、エコですね。

そんなこんなで帰れる目途がついたハイコ。
助手席に安堵して座っていると、ちょうど信号待ちで車が止まったところにアイスクリームの露店がでていました。
露店といっても、市販のアイスクリームが冷凍のショーケースに入って、その上にパラソルが刺さっているだけの簡易的な露店です。

当時私は、マグナムというバニラアイスにチョコレートがコーチングされた、今でいうパルムのようなアイスにドはまりしていました。留学してから10キロという大胆増量していたハイコですが、うち5キロはマグナムによって生成されたといっても過言ではありません。

夕飯は寮に戻って食べる予定だったので、夕飯抜きの状態でした。
無事帰れるという安堵とともに、急激な空腹に襲われました。

ショーケースの側面にでかでかと「マグナム」のロゴと絵が描かれていて、それはそれはおいしそうです。
どうやら、信号待ちの間にハイコはすごい形相でその露店を、そのショーケースを凝視していたようです。

ドライバーさんが、

「お腹すいたの?アイスクリームごちそうしようか?」

と声を掛けてくれました。ハイコはそれほどまでにひもじさ満開だったのでしょう。
なんせ所持金15元ですしね。

いやいやそんな、ご厚意に甘えるわけにはいきません。
そしてやっぱり一刻も早く帰りたかったので、丁重にお断りしました。

結局、途中で他のお客さんが乗ってきたものの、ハイコの目的地の道すがらで降りて行ったので、迂回することもなく、無事寮にたどり着くことができました。

よくよく考えれば、そこでお部屋に戻って追加代金を払えばよかったし、ドライバーさんも要求してくれてもよかったのですが、門にたどり着くと、この上なくさわやかにドライバーさんは去っていきました。

サンキュータクシードライバー!!めでたし、めでたし。


余談ですが、当時中国が日本に比べて優っているものといったら、いの一番に「タクシードライバーの愛想の良さ」だとハイコは思います。
ドライバーの愛想が悪すぎてなんだかこちらが気を遣うみたいなことが、中国では一切ありませんでした。
なので日本に帰国した際、スーツケースをゴロゴロ押しながらやっとの思いで乗り込んだ日本のタクシードライバーさんの態度の悪さにカルチャーショックを受けました。
たまたまね、虫の居所がわるかったのかもしれないけどね、お仕事でしょっ?っておもいます。

おわり。

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